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Apr.

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30 Sep. 2013

子どもと、おもちゃと、ダイバーシティ その1

小さい頃は、電車のおもちゃが大好きだった。
でも、何がきっかけで電車のおもちゃが大好きになったか、あまり覚えていない。

そういえば、大好きだった紙芝居もあった。
何度も何度も、先生に読んでもらっていた記憶がある。
でも、その紙芝居も、どうして好きになったのか、思い出せない。

「ダイバーシティ」という言葉を知ったとき、僕はふと「子ども」の頃の自分を
思い出した。
今でも不思議に思うけれど、僕はきっと(僕だけではなく、子どもって)、
今よりも話すことが滑らかにはできなかったし、
身体だってきびきびと動かせなかったし、
ましてや、人とのコミュニケーションもうまくできていなかったと思う。

そんな時期にいつもそばにあったもの。それが「おもちゃ」。
「おもちゃ」って、実は、それが間に立つことで、小っちゃい頃の僕と、誰かを、つないでいたんじゃないか。
そこで、この「おもちゃ」というものを、今後数回にわたって深掘りしてみようと思う。

今回はその初回として、「おもちゃ」と子どもの初めての出会いから、どのようにして「遊びかた」を見つけていくのかという、おもちゃと子どもの原初的なかかわりについて、知人へのインタビューを基に考えてみた。

―「おもちゃ」と子ども。そのかかわりは、子どもが生まれたとき、「遊び」を覚える前から始まっている!?

0004-02写真は、筆者が1歳頃のときの「えらびとり」という行事の場面。(地方によって呼び名が変わるそうです。)いくつかのおもちゃや生活道具を並べて、「その中から何を選ぶか」で、 その子どもの将来を占うのだとか。 ちなみに、筆者が選んでいるのは、「計算機」(=データを使う仕事だから?)

生まれてすぐの子ども〜0歳児の子どもは、「おもちゃ」を遊ぶもの、としては認識していない。
目の前の「モノ」を目で追い、手で触ったり、握ったり、ときには口に入れてみたり……成長の過程で、使う「おもちゃ」は変わっていくけれども、いちばん最初は、目の前の「モノ」を見ても、それがなんなのか、どうやって使うのか、わからない。

 

保育園で0歳児を受け持っている知人の保育士に話を聞いたところ、
子どもの「おもちゃ遊び」には3つの段階がある、とのこと。

まずは、
①「大人とのやりとり」
目の前のなんだかわからない「モノ」を、親や周りの大人が使って遊んでみせる。
生まれてすぐの子どもが、それを「おもちゃ」として認識するのは、そこからだという。

だから、極端な言い方をすれば、どれだけたくさんの「おもちゃ」に囲まれていても、目の前で「おもちゃ」を使って遊んでくれる人がいないと、子どもは「おもちゃ」で遊ばないのだとか。

何度も何度も、子どもの近くで、「おもちゃを使ってみせる」…そうすることで、だんだんと、「おもちゃで遊ぶ」、ということを覚えていくらしい。

そして、次に
②「自分で遊びだす」
この段階は、僕もうっすら記憶がある(ような気がする)けれども、一人ずつに、好きなおもちゃもでき始めて、思い思いに夢中で遊ぶ段階。

たとえば、一人ままごとをしたり、電車のおもちゃで遊んだり、積み木を積んだり…。

0004-03

ちなみに、最後の「積み木」。積んで遊ぶものだと思っていたけれど、そうではなくて、「大人が積んだ積み木を、ガシャーン!!と崩して遊ぶ」ところも、遊びの一種になる。
初めは、自分で積むのではなく、誰かが積んでくれたものを、壊す、というのに、楽しさを覚えるのだとか。(たしかに、ものを壊すときって、ちょっと楽しかったりする。)

やがて、だんだんと、今まで「崩していた」積み木を、「積む側」になって大人のまねをしてみる。そうやって、自分で積んで崩して、となる段階が②。

やっと3段階目になって、
③「他の子ども(との遊び)に関心を持つ」
(それまでは一人ずつばらばらに遊んでいたのが、)みんなでままごとをしたりする段階。
ひとつのおもちゃを、ある子どもが使っているのを見て、そこに混ざっていく…という「みんなの遊び」が始まる。

ここでは、自我が出てくると同時に、他者(他児)を意識することがはじまり、
ケンカもワガママも増えるけれども、
みんなで遊ぶ状態(=ダイバーシティな環境)ができてくるのではないかな、と思う。

では、「みんなで遊ぶための、おもちゃの工夫」ってなんだろう?

 次回はそんな点に立って、「おもちゃ」と「ダイバーシティ」をより立体的に考えていきたい。

(次回へつづく)

 

まとめ

ダイバーシティという視点でおもちゃと子どもを考えてみる。

初回インタビューした知人は、「子どもって、宇宙人みたいだから」と口にしていた。

どういうコミュニケーションをとったらいいのか、どんなメッセージを伝えようとしているのか。そういったことを、子どもと大人が直接ことばでやり取りすることは難しい。そんなことを意味しているのだと思う。

そこで、子どもと大人とが「おもちゃ」を使って、“遊び”(楽しいコミュニケーション)をすることで、少しずつ、お互いが楽しいことや、してはいけないことを覚えていくことができる。
つまり、「子どもと大人という、特性の違う存在が、共通体験をするツールとして、おもちゃが機能している」と考えることができるのではないか。

もちろん、「おもちゃ」という「ツール」を使わなくても、遊ぶことはできるのだけれども、「おもちゃ」があることで、子どもは自分がどんな遊びをしてもらったか、どんなことが楽しかったのか、ということを思い出しやすくなるのではないか。

そして、それは、人と人がコミュニケーションをするとき、なにかしらの共通体験があることや、一つのことを一緒に考え、取り組んでみることを通して、お互いがお互いを尊重しあう環境が出来上がりやすい、ということにもつながってくると思う。

知人はインタビューの最後にこんなことを言っていた。
「子どもは、おもちゃそのものが好きになるんじゃなくて、おもちゃで遊んでくれた体験を好きになる」。
この言葉は、子どもとおもちゃ、という関係だけではなく、
「人は、なにかを好きになるときは、かつてそこに関わったときの共通体験を好きになる」と言い換えることもできるかもしれない、と感じた。

それは、一緒にご飯を食べることや、映画を見ることや、ドライブに行くこと、あるいは楽しく仕事をすることとかも入ってくるだろう。
そんなことが、大人の社会で、人と人をつないでいく「おもちゃ」のような存在なのではないかと考えさせられた。

<おまけ>
―なんでも「おもちゃ」!?なんでも「遊び」!?
0歳児には、片付ける、という概念がない。
たしかに、子どもがいる場所は、おもちゃが散らかっているイメージがある。

けれど、これはそういう意味ではなく、「片付ける」ことも「遊び」の一つなんだとか。
たしかに、おもちゃが先にあって「遊ぶ」・「片付ける」という概念はあとにくるわけだから、なんでも「遊び」にしてしまえば、楽しいのかもしれない。

この柔軟さ、見習いたいくらい(笑)。

取材・文: heartbeat
Reporting and Statement: heartbeat

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