【インタビュー】保育士おとーちゃん須賀義一先生にきいた「現代の子育てのあり方」vol.1
- コミュニケーション・プランナー
- 國富友希愛
3歳の男児を育てる中で、日々子育ての難しさや不安に直面していた筆者にとって、“保育士おとーちゃん”こと須賀先生の著作は、目からうろこが落ちるような本です。今回cococolorこどもプロジェクトとして、須賀義一先生に子育てについてのインタビューをさせていただき、現代の子育てを支えるメンタリティや方法論を教えて頂きました。子育て中の方にもこれから子育てと向き合おうとしている方にもぜひ多くの方に読んでいただきたいです。全2回に渡りお送りします。
■叱らなくていい子育て
(國富)本を読ませていただいて、叱らず怒らず息子との信頼関係を上手く構築できるように接したいという気持ちが強くわきました。しかし実際には「早く支度をしなさい」「きちんとごはんを食べなさい」「パンチ・キックはやめなさい」と毎日のようにイライラしたり、息子に対して口うるさく注意をしてしまいます。頭の中では須賀さんのメソッドが理解できているつもりなのに実行できない。「叱らない」と繰り返し自分に言い聞かせるとうまく叱らずに子育てできるでしょうか。
(須賀先生)僕は、“叱らなくていい”子育てとは言っていますが“叱っちゃいけない”とは言っていないのです。というのも“怒っちゃいけないんだ”という気持ちは、大人自身に対する自己否定になって戻ってくるからです。
“怒っちゃいけないのにイライラしてしまった”
“絶対するまいと思っていたのにやってしまった”
という“私はだめだ”という自己否定です。“叱っちゃいけない”と「べき論」で唱えた瞬間に子育てが破綻してしまう。だからこそ“叱っちゃいけない”に代わる具体的な方法論が必要で、それにより子育てをサポートしたいというのが僕のコンセプトです。叱らない・怒らない子育てを主張している方はたくさんいらっしゃると思いますが、同時に方法論を提示しているものは必ずしも多くないかもしれません。方法論として実践できるもの提示して、それをやってみてもらう中で“子どもと心地いい時間を過ごせたわ”という自信をもつことができれば子育てが苦行になりにくいと考えています。
■子育て×自己実現
(國富)確かに育児が苦行である、母親業と仕事の両立は妥協の連続である、という気持ちがわくことがあります。子どもはもちろん可愛くて愛していますが、自分の時間が持ちにくいことや子どもの気持ちや行動はコントロールできないので予想外なことの連続になりストレスを感じます。
(須賀先生)僕は、愛情で子育てを語らないようにしています。愛情そのものを否定しているわけではないのですが、世間一般に流布する愛情という言葉の中に非常に濃厚にそれを投げかけられる人(子ども)に対する自己犠牲を要求するニュアンスが含まれているからです。「お子さんに愛情を注ぎましょうね。」と言われると、自己犠牲をして頑張ることで子育ては成り立つものだと解釈をする人も多いと思います。僕が大切だと思っているものは、子育てを子どもに尽くすことではなく【親も自己実現して、子どもも自己実現すること】と捉えることです。身を粉にする/尽くす/我慢することが子育てだ、愛情だと思って、双方の自己実現から遠のいていってしまっていることが現代の子育てをする人の悩みの根底ではないでしょうか。
(國富)私が私の自己実現をする、育児中にラクをする、ということに罪悪感を覚えます。例えば保育所にまかせっきりにして仕事をすること。動画配信を子どもの相手をさせて過ごすこと。手作りでない手抜き家事をすることetc…
(須賀先生)仕事や趣味に親が打ち込んで【自己実現】することは良いことです。仕事と子育てを天秤にかける必要はなくて、仕事も楽しい&子育ても楽しい、と楽観的に充足感を感じている大人を見て育つことは子どもにとってプラスに働きます。1対1で24時間、ひとりの子どもと向き合うことはプロフェッショナルでもしんどさを感じることです。親の自己実現を社会的にサポートする必要があるというのが現代で、保育園はそのためにあるのではないでしょうか。お母さんお父さん自己実現してください、というのが保育の仕事だと思っています。そして自己実現とは仕事の一大プロジェクトで成功するとか、高尚な趣味を持つとか、そういったことではなくて、したい髪型をする、着たい服を着る、好きなものを食べる、好きなものを観る、という自己実現で良いのです。愛情という言葉が暗に含んでいる子育てには犠牲が伴うという思いが骨身に沁みついている場合もそのような自己実現を目指してみてください。ポジティブな大人の姿を見て、子どもも自分の自己実現の方向を学んでいけるのではないでしょうか。
■子育て×自他境界の曖昧さ
(國富)自分らしさを子どもに見せる、ということを意識したことがありませんでした。シングルマザーとは~。ワーキングマザーとは~。母親とは~。女性とは~。という社会像に囚われていて、私とは~。というありのままの自分らしさをつい見落としてしまっていました。
(須賀先生)理想の父親像、母親像なんて、幻想にすぎないんですよね。かつてもそうですが今ならなおさらです。僕はインターネットを通じて、また直接に3000件ほどの保護者の方のご相談を受けてきました。子育てで感じる難しさの多くが、子どもの問題と育児する大人の問題が地続きであると気付きました。わかりやすく言うと【生きづらさ】です。特に日本では女性が育児を大きく担っている場合が多いので、子育ての中に女性ゆえの生きづらさが現れます。具体的には、子どもの姿に何か問題があると私が~しなかったからこうなったんじゃないか、と自己否定で捉えてしまう女性が多いのですが、たくさんお話を聞いているとそれが個人の問題ではなく女性を取り巻く女性の在り方、社会の在り方の問題であることがわかります。子育ての問題に取り組んでいくと根っこにあるジェンダーの問題に行き着きます。 例えば、僕は東京生まれ東京育ちなので、田舎に憧れがあり人の故郷の話を聞くのが好きなのですが「あなたの故郷はどんなところですか?」という質問をすると、男性は喜んで故郷の話をする人が多いのですが、女性は口をつぐむ人が少なくありません。故郷は、家族の問題、地域の問題、幼少期の嫌だったこと、子ども時代を過ごした故郷で、肌身で受けた傷を想起させることがあるからではないでしょうか。保育士は現在97%が女性です。僕が保育士になった頃は男性の保育士は1%程度で、当時僕の正式な職名は“男性保母”でした。さておきなぜ保育士に女性が多いのでしょうか。「女の子だから保育士になりなさい」「女性は4年制大学に行かなくていい」「花嫁修業になるような学問を勉強しなさい」ということを言われていたりするからです。いつの封建時代?というような感覚が延々と続いているようです。こういった社会からの性別に対する抑圧や要請は、子育てを通して親から子どもに受け継がれて連鎖します。親は、その親からジェンダーバイアスも含めて「あなたはこうあるべきである」というプレッシャーを受けます。親の期待に応えるために頑張るのだけどしんどくなってしまうという状況があります。先ほど【親も自己実現して、子どもも自己実現すること】が将来的に子どもも幸福感を感じられる子育ての方法であると述べましたが、この場合、親の自己実現を子どもが肩代わりしているのです。例えば、親の世代が「(時代や性別を理由に)大学に行かせてもらえなった」という抑圧された思いが、子どもに「あなたは良い大学にいくべきだ」というスタンスで受け継がれ世代を超えて連鎖が生まれます。子どもがそうしたいのであれば全く問題ないのですが、無理をして親の期待に応えようとすると、世代を超えた生きづらさの連鎖になってしまいます。現代の密室化し孤立した1対1の子育ての中では、その連鎖は他者のサポートや介入がないと断ち切ることができません。狭くなっている親の視野を広げ生きやすさを取り戻すという仕事も保育は担っていると思います。
(國富)私自身子どもの頃のことを思い出すと、私が親の自己実現を背負わないのだと断ち切ることは子どもの私には難しく、親を喜ばせたかったし、期待にそうようなふるまいや努力をしていた気がします。それは生きづらかったです。
(須賀先生)世代を超えた生きづらさが連鎖する原因は【自他境界の曖昧さ】だと考えています。親と子の間の境界が曖昧で、家族の中で同質化して捉えてしまっている、ということです。家族といえども別の人格であるということを意識できれば、親の期待に応える子どもでなくても良いはずですが、私たち日本人はさまざまな場所で、自他境界の曖昧さに馴らされているという状況があると思います。例えば、学校校則で先生が生徒に頭髪チェックや下着のチェックをすることがありますが、そのような踏み込む必要のないものに踏み込むこと。他者のプライベートに立場が「上」であれば干渉していい、というのは、学校組織の在り方が個人の自他境界を強化している例です。日本ならではの対人関係、つまり個の曖昧さ、プライバシーをもたせてもらえないという文化が、理屈ではなく感覚として血肉になり身についてしまう。さらに、曖昧さの強化に一役買っているのが【ホモソーシャル】です。“裸のつきあい”といって、一緒にお風呂に入ったりしますね。本来は自分はイヤだという人がいてもいいはずです。“つきあい”の名のもとに、プライベートを壊し、プライバシーを開示させ、個を薄めて、同一化させている例です。個をすり減らすことに馴れると、自他境界が曖昧になり自分がやりたかったができなかった自己実現を自分ではなく子どもに肩代わりさせてしまうのです。人は疎外されるのが本能的に嫌なので、ホモソーシャルに染まるしかない。子どもも同じです。染まるのが嫌な人は、その社会からドロップアウトするしかない雰囲気があります。仮に、子どもを一流大学に入れたい、という思いが親にあったとします。それは、子どものためなのか、親の自己実現を子どもに肩代わりさせているのではないか、と見つめてみると自他境界の曖昧さに気づくことができますが、閉塞的な日本社会の在り方がその気づきを阻んでいます。
■子育てとホモソーシャル
(國富)日本社会の生きづらさの根っこにあるホモソーシャル的な価値観から子どもを守る方法論はありますか。
(須賀先生)これは明確な解決策があるというわけではないです。ホモソ―シャルな社会の在り方がデフォルトなので、社会の中でさまざまなものから子どもは影響を受けます。例えば、子ども向けのアニメもその一つでしょう。日本の社会に蔓延している価値観から守るということについて考えてみると、子どもに与えるものを親が吟味する必要があると思います。実は日本には、子どもの文化が希薄なところがあります。子どもによりよい遊具を与える、よりよい絵本を与える、情操にいいものを与える、という視点がないわけではないのですが、希薄だったり、無自覚なところがあると思います。ヨーロッパの子育てに重きを置いている国では、子どもに与えるものを吟味し良いものを与えて子どもを伸ばしていくという考え方が広がっています。伸ばしていくといっても知育的なことではなくて、文化としてあるのです。無自覚というのは例えば、0歳や1歳の子どもたちに、暴力的な表現があるアニメ等がこども向けとして認知されて与えられているということからわかります。暴力表現が普通にあって小さいうちからそれを取り入れることができると、子どもは見ることによって暴力を習得してしまうことがあります。さらによくないのは、大人が与えておきながらそれ(暴力)はよくないよと指摘しているという点で、これはダブルバインドです。子どもに暴力を使わせたくないのなら暴力表現のあるものを与えないほうがいいのでは、と考えるところを、日本には指摘する人気づく人が少なく流布してしまっています。ホモソーシャルから守る以前のところでさまざまな課題があると思います。これからの子育てをする人は、課題に対して無自覚でいないほうが良いのではと思います。ただし自分の持っている価値観を否定されたとは考えないでください。感情論ではなく方法論として、子どもに良いものを与える術を大人が身に着けることを知ってほしいと思っています。ホモソーシャル、トキシック・マスキュリニティ(※)というものが見つめられるムーブメントがようやく日本でも始まったところですが、なぜ今なのかを考えるとそうした問題を今まで感じていても出せなかったという状況があったからだと思います。ある女性の方が「私たち女性が、もう黙らなくていい。」という内容のツイートをされていたことが印象的でした。黙らされていた人たちが、黙らなくてよくなり生まれるパワー、すなわち抑圧からの反動は非常に大きい力を持ちます。日々そのパワーを、Twitter等で目の当たりにしています。疑問や意見を挙げる人が増えてきてジェンダーの在り方の問題が言論のテーブルに乗り始めました。一つ大切な視点は、ホモソーシャルを否定することは男性の幸福を奪うことではないということです。ホモソーシャルから解放されることで、男性も楽になると思います。これまでのような、男性は子育てに参加しなくていいというスタンスが男性を幸せにしていたなら良いのですが、実際そうでないケースがたくさんあったと思います。男性たちは家庭の中での自らの自己実現をして充足感や幸せを得てきたかというとそうでない場合があります。団塊世代がリタイアする大量リタイア時代に見受けられるのは、男性自身のアイデンティティを維持するものが欠如してしまう事象です。仕事に居場所やアイデンティティをもっていた人たちが、家庭の中で居場所がないと感じ、配偶者や子どもたちの関係性が自分たちにとって、心地いいものではなくなっているということに直面しています。これは逆算すると今まさに子育てしているお父さんたちに掛かってくる問題です。この状況を繰り返さないで男性が家庭の中でも自己実現していくためには、今までの価値観をアップデートしていかないと男性は末永く幸せになれません。そのためにはどうしていくかというと、ジェンダーの価値観、トキシックマスキュリニティ(※)問題と向き合って解消していく、ということが必要になっているのではないでしょうか。実は若い世代はこの意識を元々持てていると思います。同様の話に理解を示してくれやすく、ゆとり世代と言われる人たちは柔軟な思考の持ち主です。育児に限らず、若い世代がさまざまな決定権をもつポジションに立てるようにシフトすれば、色々なことが現代的に変わって、循環していくのではと思います。
■第二回へつづく
※トキシックマスキュリニティ(ToxicMasculinity)
有害な男らしさ。社会が男性に対して“男らしさ”を設定し、その“らしさ”に沿わない行動や思想を排斥することや、その概念のことを指す。
■須賀義一氏プロフィール
子育てアドバイザー/保育士。大学時代はドイツ哲学を専攻。人間に携わる仕事を志し保育士になる。
子育てのポイントや育児相談。保育士としての知識、主夫として子育てした経験を綴ったブログ『保育士おとーちゃんの子育て日記』が人気を博す。
著書に『保育士おとーちゃんの「叱らなくていい子育て」』『保育士おとーちゃんの「心がラクになる子育て」』(PHP研究所)がある。現在は子育て講演や座談会、保育研修・監修、コラム執筆等をしている。個別の育児相談や講演依頼はブログ内リンク先のホームページより受付。
ホームページ: https://hoikushioto-chan.jimdofree.com/
Twitter:@hoikushioto
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