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Dec.

2021

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23 Mar. 2021

「差別」といふ社会問題を、我も考えてみむとてすなり。

得津有明
プランナー
得津有明

3月21日が国際人種差別撤廃デーとして国際連合に制定されてから、今年で55年。制定の契機は、1960年に発生した南アフリカのシャープビルでの事件です。アパルトヘイトに反対するデモ行進に対して警官隊が発砲し69人が亡くなったことを受けて国連が人種差別に取り組むこととなり、事件から6年後の1966年に制定されました。

それから55年。差別を無くそうという世界の姿勢が実を結んでいる面もありつつ、依然として多くの差別問題が存在し続けています。

前回の記事でも紹介しましたが、私は総合商社に勤務していた2015年、イスラム文化圏のひとつアルジェリアに駐在し、異文化との良好な関係を築くためのハンマーセッション(研修)を受けました。その経験について3月21日をきっかけに改めて思い起こし、差別という社会問題を考える時間が必要だと思い至りました。多様な人と議論を重ねるためにも、まずは自分の中で整理をするために、本記事に私の中の問いを記していきます。

※本コラムは学術的な研究に基づいたものではありません。

アルジェリア現地スタッフの結婚式

 

差別が発生するプロセスと、その本質を考えてみる

多くのひとが差別の撤廃を期待し、長きに渡り取り組み続けているのに、なぜ今もなお、差別が存在し続けるのか。それだけ差別の本質は深いから、あるいは複雑だからでしょうか。

そもそも私たちは、人種に限らず、好きな食べ物、居住地、学校、会社など様々な物差しで、自分と他者を識別することがあります。それは単に仕分けるという意味に近く、これを指して、差別と言う方は少ないと感じます。

では、識別がどのように差別へと変貌するのか。

まず、人類が、“自分と他人”という認識にぶつかったときのことを考えてみます。個人は自分勝手に生きるのではなく、他人と協調することで生きぬく術を獲得してきました。例えばそれは、石器時代における、食物を独占せず仲間と分かち合うこと。現代であれば、チームのための自己犠牲などもその例えといえるかもしれません。自分と他人という関係が交わり仲間やチームという形に進化、さらに、人種や会社、国などのかたまりとなり、自らのかたまりを示す”自分たち”という認識が生まれたと考えました。

次のステージとして、”自分たちと他集団”を想定してみます。『自分たちと違う存在である』と識別した他集団を対等な存在と見なせるか、という課題が生まれます。限られた資源は自分と他人という個人同士であるうちは分け合えることが多いでしょう。しかし、集団という単位になると状況は変化します。他集団を対等とみなし、土地や食物といった限られた資源を平等にわかちあうことに困難が発生します。そして、その困難をきっかけに、争いや勝敗が存在するようになり、ナショナリズムや人種差別へと変貌していったのではないかと捉えました。

 

ここまで考えると、差別の本質はもっと様々な仮説が立つ可能性があり複雑そうです。

では、皆さんは他国籍や他コミュニティの友達が一人もいませんか?自分とは異なる集団の彼や彼女に対して、無条件に憎しみを感じますか?おそらく、そんなことはないでしょう。

”自分と他人”という個人同士では、良い関係を築いている方も多いはずです。

では、くくりを広げ、“自分たちと他集団”というかたまりで関係を考えるとどうでしょうか。差別が生まれている歴史的な事実、みなさんの生活のなかでの実体験など何かしら思い起こすものがあるのではないでしょうか。資源を平等に分配することへの拒絶や憎しみ、知らないことに起因する恐怖、違いを嫌悪する意識など、差別が生まれる理由は多様で、さらにそれらの理由が複数重なることもあるゆえに差別は深く複雑だと思われがちです。

テロ直後の市街地

 

桃太郎を例に考える、そう聞いたからに起因する行動

しかし、もしかしたら、理由以前のことなのかもしれないとも思いました。

単に、「そう聞いた」から。

つまり、深い意図なく差別は生まれているのではないか?という私の仮説です。

 

桃太郎のお伽話に例えると、桃太郎自身が直接鬼に何かされたからというきっかけではなく、村の人から鬼は「悪いものと聞いた」から、桃太郎は自分のなかで鬼を対等に存在し分かち合う存在ではないものと認識し、村や仲間を守るため鬼退治に行ったと解釈できます。

 

私がアルジェリアに駐在し日々を過ごすなかで、異なる宗教を信仰したり、習慣を有する個人同士の多くは、その文化を認め合う、または問題視していないように感じていました。つまり限られた資産を対等に分け合う存在の個人同士であったということです。

一方で、世界情勢というくくりでは異なります。私の経験として、アルジェリアからパリに出張した際は、アルジェリアからの到着機というだけで、機体封鎖の上、憲兵隊が乗り込んでくる光景を何度も目の当たりにしていました。機内では何も起きていないのに、個人同士では問題視していないのに、集団・地域・国といった単なる識別に別の要素が加わったと感じる経験です(実施側の理由があり予防の目的で行われている行為であることは理解できていますが、個人としてその経験への違和感があるという意味です)。

他にもアルジェリアの公園やモスクなどで会う子供たちが、彼らが会ったこともない地域の人を指して嫌いと言っていたり、現地スタッフからは「日本人はアジアの一部地域と険悪な関係なのだろう」と言われる経験もありました。

このような発言や態度の多くはその人が直接目撃あるいは経験したことよりも、「危険だ」「~らしい」「異質なものとみなし遠ざけるべき」という価値観を共有されたことに紐づく行動なのではないかと、私に桃太郎の話を思い起こさせました。

ゆえに、互いに紐解といていくことで差別をなくしていくこともできるでしょうし、異質なものを差別することで自分たち側の利益を守ることが正解、という価値観が強く共有され続ければ、本質的ではない実態(虚)に絡めとられてしまう。差別がなくならない私たちの世界は、残念ながら後者を選択している状況があるからなのではないかと私は感じています。

よく通ったアルジェ自宅近辺のモスク

 

撤廃を越えた、アップデートによって前向きな未来をつくりたい

ただ私個人としては、撤廃よりももう一歩先のアップデートで未来を創りたいという想いがあります。

「撤廃」という言葉には、とりやめるという意味がありますが、差別自体がなくなっても、その事実と虐げられた集団の感情をなかった事にはできないからです。

差別のあった事実に向き合うことが大事であり、それが未来への始まりとなるのではないでしょうか。事実から目を背けた状態で撤廃を謳っても、世代から世代へ教えられていく円環がある以上、解決への道のりは長くなるばかりです。

私たちの意識をアップデートにより、互いの違いを知り、認め合い、限られた資源を分け合える世界へと再構築する。アップデートするということは、その時間や世界を否定したり、抹消したりしてしまうのではなく、その存在があったことを担保するもので、撤廃よりも前向きで未来のある行為だと私は考えています。

私は、3月21日という日を前向きな未来に思いを馳せる1日にしたいと思います。

取材・文: 得津有明
Reporting and Statement: ariaketokutsu

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