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2024

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12 Oct. 2022

「自分の結婚式」がイメージできなかった私の場合~家族のかたちの現在地④~

伊藤亜実
cococolor編集員 / ライター
伊藤亜実

「結婚式」は好きですか。私は、結婚式に参列するのが好きです。

カップルの歴史を紐解いたり、家族への感謝や愛を語ったり。そして、参列者が一張羅をまとって笑顔で集い、時間を共有するという、特別なセレモニーとしての空間性が、素敵ですよね。

ところがどっこい、私はどうも「自分の結婚式」については、憧れを持てないまま35年を過ごしてきました。
人ゴトなら好きなのに、自分のこととなると、なんだか億劫にすら感じる。このモヤモヤはなんだろう。先日、人生で初めて、自分の結婚式をすることになった私は、禅問答のように考えました。そして、準備のプロセスの中で、その問いへの自分なりの回答を得られたので、その体験をシェアさせていただきます。

 

 

「結婚式=自分のためのものじゃない」と思っていた理由

 

さて、前述のとおり、結婚式に参列するのは好きだけど、あの高砂の上にいるのが自分、という状況はどうも想像できずにいました。が、実際に自分がやるとなったら、そうも言っていられません。

目立つのが恥ずかしい、シャイなので・・・というわけではありません。なんとなく感じる、「私のためのものではない」という違和感・疎外感。その正体を探りたいと思いました。

 

会場選びは、祖父母のアクセシビリティで決めました。遠方から来る祖父母のための客室も充実し、車いすサポートもしてくれる、申し分ないホスピタリティのホテルを選べたことに満足しています。

ただ、問題は、披露宴のプランニングでやってきました。「家族の幸せ」を象徴するセレモニーだからこそ、なのでしょうか。「この会場が理想とする家族像」が、あまりに具体的に描かれていて、その理想形が、式次第や、言葉の選び方、演出など、あらゆるところで「型」として表出・定着している。そして、その型を踏襲することに、迷いの余地なし。

私は、新しい家族の形は、ゼロから築いていくものだと思っていましたので、この型の存在に気付いたとき、「ああ、私が感じてきた結婚式への違和感・疎外感は、この“型”にハマれる気がしない、ということだったんだな」と気づくとともに、結婚式を「型」通りに執り行うことによって、知らず知らずのうちに、その「あるべき家族像」に従う、という約束をしてしまうような、そんな小さな恐怖を感じました。

めでたいこと、嬉しいことであるという根底はゆるぎませんが、それでも私がついつい考えすぎてしまうのは、家族の在り方に柔軟性を持たせたいという価値観によるものです。そんな私が感じた、結婚式に見た、家族の「型」をいくつかご紹介します。

 

 

≪型その1≫ 結婚(式)は「家」同志のものである

 

式場ではよく、「○○家・△△家 結婚式会場」という案内をよく見かけます。招待状は、両家の父親の名前で出すのが正式、とされているそうです。このような、家同士による結婚、を象徴する型が、いたるところで現れます。

例えば、進行台本作成時、司会者さんが、ホテル提供の定型文の違和感に気づき、声をかけてくれました。「この開会宣言の部分、『○○家と△△家の披露宴』ではなく、『(新郎)さんと(新婦)さんの披露宴』という個人名でのご紹介がお二人らしいのでは。」

このアドバイスで、私はハッとさせられました。

そもそも私自身の「家」への意識は曖昧なものです。大学時代に両親が離婚し、自覚的に二つの親の世帯を行き来してきたので、日ごろ名乗っている父方姓だけでなく、母方姓にも愛着が強く、一方で、私はどちらにも肩入れしない、中立な個人という立場をとってきました。

鋭い感覚で指摘してくれる司会者さんのおかげで、自分なりに基準をつくってきた「家」との関係性を大事にできたことに感謝しました。そして同時に、結婚式当日まで、与えられた「型」をそのまま受け入れるのではなく、意識的に改善していこう、と決めた最初の出来事でした。

 

≪型その2≫ 生涯連れ添うカップル(一人の父と一人の母)がお手本

 

結婚式において、新郎新婦の末永い関係性を祈ることは最も重要なこと。縁起を担ぐ意味でも、「2で割り切れる数字はご法度」など、“別れ”を象徴するものは排除されます。

私の場合はというと、両親が離婚しています。一方で関係は良好なので、それぞれのパートナーと共に、式に参列してもらいました。私は、この「拡張家族」と、そういった選択をした両親の決断と奮闘の日々を、リスペクトしています。

それでもやはり「型」の中では、新婦の父と母は、「永年連れ添った二人」であることが前提とされ、多くの場合、対で扱われ、感謝の対象かつ、連れ添う二人のお手本としての役割を持っているため、確認や修正のお願いが必要でした。

私の場合、テーブルを分けるのか一緒にするのか、どちらをより下座に寄せるか、など、しきたりを重んじながらも、自分たちらしく楽しめる席次づくりに腐心しました。

父と母の各パートナーの肩書にも悩みました。席次表では、親族に関して、「いとこ」「義理弟」など、きめ細かな書き分けをします。では、「父/母パートナー」という表記があるかというと、これに関しては「親族」と記すのみ。どこか、明確な言葉が用意されていないことへの、ざらっとした疎外感を、感じました。

 

 

≪型その3≫ カップルにおいて、「公的な役割」は男性に一任

 

私のシングル生活が長かったせいでしょうか。あらゆることに自分で対処してきた身からすると、カップルという単位になったとたんに、「まず男性」という場面が多いと感じます。

結婚式においては、新郎のスピーチにはじまり、新郎父のスピーチに終わるという「型」も、そのひとつの例です。

私がここで困ったのは、友人への招待状づくりの型でした。家族ぐるみで付き合いのある友人は、カップルで参列してもらいましたが、私の友人は女性が多く、招待状の宛名には彼女を先に表記したかったのですが、会場の方針として、パートナー(男性)の名前を先に記載することとなりました。

なぜ、公式な場面ほど「男性が先」「男性が表」という序列が正式なマナーとなっているのでしょうか。かつては、公の場のホストは男性。招く客も主は男性であり、女性はその伴侶として同行する場面が多かったということなのでしょうか。

「家同士の結婚式」においても、主催者は新婦ではなく新婦の父。その招待客も、新婦の個人的な友人(女性)ではなく、新婦の父の客人(男性)とその伴侶(女性)、ということが多かったため、男女の序列に不都合がなかったのでしょうか。

古くからの伝統は重んじながらも、女性がホストし、女性を主客として招くことがより増えていく公式行事のマナーは、きっとすぐにでも変わっていくでしょう。

 

 

拡張家族だからこそ、結婚式はやってよかった。

 

ここまで、私が違和感を持ってきた、結婚式の「型」についてシェアしてきました。でも、結婚式は、やってよかったと思っています。

受け継がれてきた伝統や「型」と両立させながら、そこから外れた拡張家族の、ありのままの姿と楽しさを友人に紹介できたことが、私にとって、ひとつの成功体験になりました。

規格外の家族を持つ人、これから多様な家族の形を選んでいこうとしている人に、この過渡期の世界の「型」と共存しながら、結婚式という特別なセレモニーを楽しむことも、悪くないぞとお伝えしたいと思います。

今はまだ、工夫が必要だったり、思いがけず苦労をしたりすることもありますが、これからの新しい家族について、改めて考え、いろいろな人と話すきっかけになるでしょうから。

コンテンツに見る家族の多様性~家族のかたちの現在地③~はこちら

取材・文: 伊藤亜実
Reporting and Statement: atimo

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