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8

Apr.

2020

column
12 Dec. 2019

コピーライターが見た、手話という言語。手話という文化。

高橋慶生
コピーライター
高橋慶生

品川区にある私立ろう学校「明晴学園」では、日本手話を第一言語、書記日本語(読み書き)を第二言語として学びます。プレスクールの乳児から幼稚部、小学部、中学部まで約80名が、同じ校舎に通っています。

学園を紹介したNHK ETV特集「静かでにぎやかな世界」が2018年に放映され、番組は文化芸術賞やギャラクシー賞などを受賞。学校には日々、日本だけでなく世界からの見学者が訪れています。

今回は、コピーライターの高橋慶生が学園を訪問。授業や文化祭への取材を通して、その独自の学び方に迫ります。

 

 

国内で唯一の「日本手話で学ぶ」ろう学校

 

1933年(昭和8年)文部省の訓示により、日本のろう学校では「手話が禁止」されていました。手話を使うことで、音声日本語の習得に支障が出るという考えからです。

けれども、本当にそうでしょうか?とお話を始めてくれたのは、明晴学園理事・教頭補佐の玉田さとみさんです。ご自身のお子さんの耳が聞こえないことをきっかけに、多くの教育機関を見学されたそうです。

日本のろう学校では基本的に「口話教育」という手法が取られています。相手の口の形から言葉を読み取り、また、その口の形をまねることで言葉を発する。そうした訓練の中で、少しでも聴者と同じようにコミュニケーションをとろうとするアプローチです。

息子さんの教育を模索する中で、玉田さんはこう考えるようになりました。聞こえないことが不自由というより、使う「言語」が違うことが学習を妨げるのではないか。そして、聞こえる子に日本語があるように、聞こえない子には手話という言語があり、それを使って学びを深めていけばいいのではないか。その想いが、現在の明晴学園設立につながっています。2019年時点で、日本手話を用いて全教科を学ぶ国内唯一のろう学校です。

 

明晴学園 玉田さとみ理事・教頭補佐

 

 

聴者とろう者。それぞれの言語、それぞれの文化

 

聞こえない人=ろう者ではなく、ろう文化に生きる人=ろう者という価値観があることを、私は今回、はじめて知りました。どちらかが健常、障害という分け方ではなく、言語を含めた「文化」による違い。明晴学園の学び方を知るうえで、まずその考えが出発点になります。

世の中には障害者、という単語があります。それと対をなす形で、健常者という単語があります。その両者を分かつものは、実際には何なのか。医学的、社会的にいろいろな見方がありますが、どこまでいってもそれは、相対的なものなのだと思います。

玉田さんからは、あくまで「聴者」であって、「健聴者」という言い方はしません、というお話が。聞こえる人、聞こえない人それぞれに得意なものと、そうでないものがある。その考え方は、私たちの視野をすっと広げてくれます。

手話と日本語という「ふたつの言葉」。ろう者と聴者の「ふたつの文化」。それらを表す「バイリンガル・バイカルチュラル」という概念があります。聴者をすべての基準にするのではなく、たがいの言葉と文化を尊重しあうこと。明晴学園の教育は、そんな考え方に根ざしています。

聞こえる子にとって、日本語で進められる授業が自然なスタイルであるように、聞こえない子どもにとって、最もストレスの少ない学びの環境をつくるのが「手話」なのです。

聞こえる人のスタンダードに一律に合わせていくのではなく、手話という道具を使って、自分の思考を深めていく。見える世界を広げていく。いよいよこのあと、その学び方を見ていきます。

 

「静かでにぎやかな世界」を象徴する廊下の張り紙

 

 

目と目で伝え合い、学び合う

 

明晴学園の校舎は、とても静かです。でもそれは、聴者である私自身の捉え方です。ろう者の子どもにとっては、言葉が行き交う、とてもにぎやかな教室なのだと思います。

それぞれの教室では、先生と生徒、みんなの視線が合うようレイアウトが工夫されています。その日、小学部の授業では、漢字の学習をしていました。ひとつの漢字を起点に、次々と単語を挙げていきます。

 

日本語の授業「今日の漢字」

 

 

コピーライティングと手話。その教育の共通点

 

筆者は、広告会社でコピーライターとして働いています。言葉を扱う職業です。言葉とは伝達の手段であり、表現のための手段です。けれどもそれ以前に、言葉は自分自身の「考えを深める」ための道具でもある。道具だということは、使い方に得手不得手があり、訓練可能だということでもあります。

コピーライターになった新人はまず、「どう言うか」よりも「何を言うか」が大切だ、と繰り返し指導されます。言い回しで奇をてらうだけのコピーは、人の心を動かさない。それよりも、その商品や企業の本当に良いところは何か。本当に伝えるべきメッセージは何なのか。そんな「何を言うか」を発見することこそ、コピーライターの仕事であり、腕の見せ所です。

 

手話は、世界を耕す道具

 

コピーを書くことは、「紙を耕すこと」だと言ったコピーライターがいます。なんとなく伝わるでしょうか。それは、書きながら考えを掘り下げていく行為。最初から書くべきことが完璧に分かっていることは稀です。紙の上にペンを走らせながら、行ったり来たりして、自分なりの答えを発見していく。丹念に耕すほど、書けたという手応えに近づくことができます。

それはどこか、彼らの感覚に通ずる部分があるのかもしれません。手話をつかって学ぶ教室を見ながら、この子たちはいま、世界を耕しているのだなと思いました。手話は、世界を耕す道具なのだと思いました。日本語と、日本手話。おそらく思考スタイルはまったく違うのでしょうが、「耕す」ことは、言語を超えた普遍的な行為なのではないでしょうか。

 

 

コミュニケーション力とは、自分と対話する力

 

周囲の人と「うまく付き合う」ためのスキルとして語られることの多い、コミュニケーション力。けれども、誰かと分かり合うためには「どう言うか」も大切ですが、それ以前に「何を言うか」つまり中身こそが大事です。コピーライターの仕事と同じように。

きっと、他者と向き合う前に、自分と向き合う必要がある。自分は何を考えていて、何が好きで、きらいで、何をしたいのか。そういった「自分と対話する」プロセスを経て初めて、他者とコミュニケーションする能力も深められるはずです。

たしかに、ろう者は音声によるコミュニケーションという点では、不便やストレスを強いられ、「察する」「あうんの呼吸」が求められる日本社会においては苦労も多い。玉田さんも、聞こえない、発音できないだけで低い評価を受ける風潮を変えていきたい、と言います。

それでも、明晴学園で学ぶ生徒たちは、まず何より、自分と対話しているように見えました。きっと、聴者の自分が想像もつかないような感覚で。それをすごく自然に、楽しそうにやっている姿に、感じるものがありました。

 

専門家の指導のもと準備を重ねた「手話狂言」

 

 

明晴学園の千神祭(せんかみさい)

 

それは、子どもたち自身が名前をつけた文化祭。およそ千人に一人がろう者に生まれることから、「自分たちは千人に一人、神様に選ばれた子なんだ」というポジティブな想いがこめられています。開催は今年で12回目。「さらなる きらめきの世界へ」というキャッチフレーズも、生徒たちのアイディアです。

 

 

舞台と客席がつくる「空気」

 

小学5年、6年生はそれぞれ「手話狂言」を演じます。専門家に指導を仰ぎ、練習を重ねてきました。あらすじや場面説明はスクリーンに字幕が出ますが、基本的には日本手話のみで物語が進んでいきます。それでも、なんとなく理解できる気がするのです。表現が豊か、という言い方をすると平板すぎるのですが。

でもそこには、演者と観客の間にある空気みたいなものが動いている感覚がある。みんなの視線が舞台上に注がれて、それに呼応するように演者たちが動いていく。私には“静かな空間”ですが、そこにいる人々の「息が合っている」ことが感じられました。幼稚部、小学部、中学部とそれぞれの年齢に分かれて、劇や歌を披露してくれました。

 

 

 

伝わる「言葉」って?

 

午後は、展示の時間です。生徒たちがリードしながら、参加者にクイズを出していきます。たとえばこの写真は、箱から引いたカードの内容をジェスチャーだけでみんなに伝えるゲーム。私が引いたのは「カチカチ山」です。頑張って表現してみたものの、全く伝わらず・・・。自分のコミュニケーション能力の限界を痛感しました。同じように中等部の生徒がチャレンジすると「桃太郎」を難なく表現。あっという間に正解を引き出します。

ちなみに私のジェスチャーは「カチカチ」と「山」それぞれの単語自体を、身振りで表そうとするもの。対して学園の生徒は、桃太郎の桃やおばあさん、鬼と、物語の要素を自在に行き来しながら、受け手のアタマに像を結んでいきます。自分がいかに、日本語という言語に頼ってコミュニケーションを取っているのかを実感した瞬間でした。

コピーライターは、まだ名前のついていない喜びや幸せに言葉をつけて、価値をつくることが仕事。しかし、言葉(日本語)にすることでこぼれ落ちるものがあり、そこにも丁寧に目を向ける必要があるなと思いました。言葉を当てはめた瞬間、じつはそこで人の思考を止めてしまうこともある。「あ、そういうことね」と話が終わってしまうように。

 

 

言語とは、文化とは何か

 

日本社会は、共通項の多い「ハイコンテクスト」な社会であると言われがちです。しかし、ここまで見てきたように、聴者とろう者など前提となるコンテクストが違う人同士では、よりていねいに、より細かくコミュニケーションを取る必要がある。それは課題であると同時に、可能性でもあるのだと思います。

この文の前半に、バイリンガル・バイカルチュラルという言葉を紹介しました。

手話は、言語であり、文化でもあった。日本では明治から大正にかけてろう学校ができ、ろう者のコミュニティが生まれ、そこで交わされるコミュニケーションの過程で、日本手話は広まっていきました。

聴者とろう者、互いの「言語や文化」は同じではない。でも、まったく同じである必要はない。むしろ違いがあるからこそ、互いの知らない世界が見える。手話は世界を耕す道具だと書いたのは、そんな気づきからでした。

明晴学園の文化祭からは、「文化」が感じられました。正確に言うと、文化とは何なのだろうか?という問いが自分の中に生まれました。その日、いろいろな場所に、自分たちの「ろう文化」について調べたり、考えたりした跡がありました。自分の、自分たちのことを深く知ろうとすることが文化の出発点なのだと感じさせられます。

舞台に展示に。千神祭はにぎやかに進んでいきました。この場に参加させてもらえたことを嬉しく思います(次は、ジェスチャークイズで正解を出したい)。

帰路につきながら、こんなことを考えました。

私はどれだけ、「自分の言葉」を使えているだろうか。

私はどこまで、「自分の文化」を考えているだろうか。

子どもたちが気づかせてくれた「問い」を、これから少しずつ耕していこうと思います。そう、彼らが手話で世界を耕しているように。

 

明晴学園 http://www.meiseigakuen.ed.jp/

 

 

取材・文: 高橋慶生
Reporting and Statement: yoshiotakahashi

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