語りの数だけ、聞き手がいる~東日本大震災後「語りにくさ」を綴るアーティスト・瀬尾夏美さん~
- メディアプランナー
- 八木まどか
東日本大震災からもうすぐ9年目。今だからこそ表に出てくる声もあります。
また、震災に対する向き合い方は、「被災地域/それ以外」だけでなく、被災地域の中ですら、さらに複雑化しています。「当事者」を一括りにすることはできず、まだ心の整理がつかない人もいれば、ずっと気持ちが揺れ動いている人もいます。
災害時に限らず、インクルーシブな社会を考えるときに、様々な他者の「受け止め方」のヒントになると思い、今回、東日本大震災後に東北に移り住んだアーティスト・瀬尾夏美さんの活動をご紹介します。
東京での学生生活から、東北へ
現在、仙台市を拠点に活動する瀬尾さんは、震災直後から行き始めた東北で聞いた「様々な当事者」の話や、激しく変化する被災地の風景をTwitterで発信し続けてきました。その約8年間の投稿内容を再編集し、2019年2月『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』を出版。若い世代が感じる東北の記録として、新聞・雑誌などに取り上げられ、あらゆる人々に反響を広げています。
『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』(瀬尾夏美著・晶文社)
2011年3月11日、瀬尾さんは東京藝術大学の学生で、東京にいました。メディアから流れてくる情報に混乱しつつも、「何かしたい」「この出来事を見ておかなければ」と思い、同級生で映像作家の小森はるかさんと一緒に被災地へボランティアに行くことを決めました。
実際に行ってみると、その光景に戸惑う一方、人々の生きる技術や語りに興味を持ちました。例えば、石巻でお邪魔したある家庭では、庭に流されてきたご遺体を彼らなりに供養した様子を語ってくれました。おどろくことに、そこには細やかなユーモアも感じられたそうです。津波で家の中が泥まみれの状況でも様々に工夫し、またそれを外から来た人の心情を配慮しながら話す、自然な優しさに触れました。
また、瀬尾さんたちは震災から1年目の2012年3月11日は岩手県陸前高田市で過ごしました。誰が号令をかけたわけでもないのに、まちの人々が海のほうに向かって歩いていく様子に出会いました。自然と海に向かって列ができ、静かにその時を迎えたそうです。ひとりで、家族連れで、友人どうしで。
2012年3月11日 人々が海に集う様子(陸前高田市)
提供:瀬尾さん
その日考えたことを瀬尾さんはこう書いています。
巨大な巨大なさみしさが
その場所にある、と思う。
けれど私にはそのさみしさの細部が、
どのように一人ひとりの身体に
入り込んでいるのかは、わからない。
そしてその巨大さも、
わかりきることは決してできない。
(中略)
亡くなった人は
声を発することはできないし、
生き残った人たちは
自分や相手の境遇の間で口をつぐんだりする。
口に出せないさみしさは、
その場所に染みついているような感じがする。
『あわいゆくころ』(晶文社)
このように、東北を歩きながら人々の立ち上がりの技術に惹かれる一方、メディアでは取り上げにくい「語れなさ」があることを感じます。津波は、明確な被害の差ができる災害でもあるため、いわゆる「当事者」の中でも複雑な境界線がありました。それに対し、瀬尾さんは完全には理解できないことを認めた上で、自分も持つ「さみしさ」に注目しながらもっと話を聞きたいと思いました。
陸前高田市 五本松とのお別れの祭り
提供:瀬尾さん
さまざまな「語りにくさ」
2012年4月から瀬尾さんは小森さんと 一緒に岩手県住田町に移り住み、陸前高田市で働きながらまちの人々と関わりました。また、2人は見聞きした話や風景をもとに映像や絵など作品制作をし、日本各地で展覧会を開いて陸前高田市の様子を伝えていきます。
瀬尾さんたちが感じた人々の「語りにくさ」には様々な背景があるようでした。たとえば、瀬尾さんが聞いた被災経験者の声を一部、紹介します。
復興、被災といった大きな言葉で一括りにされてしまう
(津波で家族を失った男性の言葉)
いつまで被災者でいればいいんだ 、
三回忌終わったら、
俺だってまた結婚してもいいかなって
思うこともあるんだよ。
気持ちは晴れなくても、新しい年は来るんだよ、
おめでとうという気持ちを
分ちあってもいいじゃねえか。
俺みたいな立場のやつがちゃんと言わないと、
みんなが委縮するじゃねえか。
心の準備ができてない
(阪神淡路大震災を体験したおじいさんの言葉)
20年ってのはちょうどいいと思うて。
震災から10年ではまだ語れへんかったけど、
20年経ったら語らなきゃって
思うようになったな。
自分がこう思っていいのか、という複雑な気持ち
(陸前高田市で被災したおばあさんの言葉)
内陸の親戚から送られてくる物資のことも、
自分よりもっと大変な人もいるから、却って申し訳ないくらいだとつぶやいた。
わかってくれないのではないか、という不安
(陸前高田市の男性が内陸に転勤になった時の言葉)
内陸だと震災のこと、わかってもらえないんじゃないかって。
たとえば3月11日に休みを取らせてくれるのかなとか
考えちゃうんだよね。
仕事場でのささやかな言葉遣い、
ふるまいや決定の一つひとつが
予想がつかなくて恐いんだ、と彼は言った。
※斜字部分は『あわいゆくころ』(晶文社)より引用
特に2014年頃から本格化した復興工事によって、陸前高田では、山を削り数十メートルの「かさ上げ地」が作られていきます。それによって、わずかに残ったまちの痕跡や、復興後に人々が集っていた場所さえ埋められていきます。このような「二度目の喪失」では、瀬尾さんが見ていても衝撃的なくらい、風景が劇的に変化しました。
震災後に町の人々が作った花壇(2014年5月 陸前高田市)
提供:瀬尾さん
かさ上げ工事のため、撤去せざるを得なかった花壇の跡地(2014年11月 陸前高田市)
提供:瀬尾さん
「語りにくさ」を感じる一方、瀬尾さんは「語れること」の本当の意味も知っていきます。大きなきっかけになったのは、50年近く東北各地の民話を聞いて記録を続ける「みやぎ民話の会」との出会いでした。「語る人がいて、聞く人がいる。根本的にはひとりではない」ことが語りの根っこにあると知ったそうです。「もの語れるって幸せなんだよ」と言ったおじいさんにも出会いました。
語りを聞くということは、同時に、
その隣にあるはずの
語られなかったこと、
どうしても語れなかったことを想う、
ということだ。
『あわいゆくころ』(晶文社)
「語る/語れない」を考えるとき、内容や受け止め方も確かに大事ですが、「語ってもらえたこと」自体がかけがえない体験だったのです。
東北や日本各地で、伝える方法を模索(瀬尾夏美個展『風景から歌』(gallery TURNAROUND/仙台)
提供:瀬尾さん
受け止める資格?
瀬尾さんは「震災に向き合っていない人は意識が低い、向き合っている人は偽善的という構造が次第にできた気がして、違和感があった」とも語りました。出版後に「自分には読む資格がない」と言ってきた人もいて、まず受け取ってもらうことの難しさを感じたそうです。
一方、私は今まで震災の話題に限らず「当事者の話の受け止め方の正解ってありますか」と聞かれたことがあります。その質問には答えられませんでした。自分とは異なる境遇の人の話を聞いて「こわい」「気持ち悪い」「よくわからない」…など様々な感情が沸き上がるのは事実ですが、出会ってしまったら「聞く」しかないと私は思います。瀬尾さんが言うように、聞き手がいなければ、人は思いや経験を語ることができず、その出来事はなかったことになるかもしれないからです。それくらい、聞くことは尊い。
受け止める資格や正しい方法を議論する前に、今できることがあるはずです。
『あわいゆくころ』を読みながら、自分なりに、多様な他者の声を「聞く」きっかけになればと思います。